こんにちは、Centです。
今回は、アメリカドルがなんで世界の基準の通貨になっているのか?について話をしていきたいと思います。
私たちが住んでいる日本だって、アメリカドルを基準にして円の価値が決まっています。
どうしてアメリカの通貨を世界各国が基準にしているのか?
そして、いつからそれは始まったのか?
世界の基準のアメリカドルはどのようにして誕生したのだろうか?
今日はこの辺を深掘りしていきたいと思います。
それでは今日もお付き合い下さい。
戦後にアメリカドルは世界の基準になった
世界の基準のお金のことを「基軸通貨」と呼びます。
アメリカのドルが基軸通貨になったのは、第二次世界大戦が起こっていた1944年7月のことでした。
アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズという場所に、連合国44カ国の代表が集まって、今後の国際通貨制度をどうしていくかについて話し合いをしました。
そこで決まった仕組みのことを、この街の名前からとって「ブレトンウッズ体制」と呼びます。
新しい国際通貨の制度は、世界各国のお金をアメリカドルを基準として結びつけようということになりました。
イギリスのポンドも、フランスのフランも、アメリカドル1ドルあたりいくらと決められました。
この時には、まだ変動性ではなくて交換比率固定していたので「固定相場」と呼ばれていました。
この時には、金の固定相場も決められて交換比率は1オンス(約31.1グラム) =35ドルでした。
ちなみに、日本円は1ドル= 360円と固定されていました。
固定相場だったので、各国のお金はいつも決まった比率でアメリカのドルと交換ができて、そのドルは金と交換できるようになったということです。
アメリカドルが世界のお金で基軸通貨になったので、世界のお金の値段はすべてドルで表示されることになりました。
アメリカが不利になりすぎて固定相場から変動性へ
ブレトンウッズ体制という固定相場の中で、日本企業は為替変動の心配をすることがなくなり輸出に力を入れていきました。
ブレトンウッズ体制は、アメリカのドルが世界中に出回って世界各国はこのドルを使って取引をする事を想定していました。
アメリカが外国を援助することもあるし、外国から商品を買ったりすることもあります。
こんなふうにして全世界にドルが溢れるようになりました。
そのおかげもあってか、世界中でどこでも貿易の支払いドルを使えるようになって、ブレトンウッズ体制の狙い通りでした。
アメリカが予想しなかった金の交換需要
「世界中がドルで溢れる」ということに成功したアメリカでしたが、世界中で儲けた人たちや国々が、「アメリカドルを金に変えたい」という人で溢れかえりました。
しかし、その量が多すぎてアメリカが持っている金の量以上に交換を要求されるようになってしまったんです。
そうなると、「金を交換できるよ」という約束だったのに、金が足りなくなったことでアメリカ政府が持っている金の量が急速に減ってしまいました。
その結果アメリカは次の手に打って出るのです。
アメリカの勝手な行動で国際通貨の崩壊
金がなくなってしまったアメリカは、1971年8月15日に、当時のニクソン大統領が「今後ドルとの交換には応じない」との声明を出しました。
それまでは、「アメリカドルは金と交換できる」ということで価値があったので、金と交換できないとなるとアメリカドル自体が意味をなさなくなってしまうのです。
この出来事は世界各国にはとても衝撃的なニュースで、「ニクソンショック」と呼ばれています。
しかし、ここで不思議なことですが「金と交換できない」となった後もアメリカドルは、世界貿易の基軸通貨として今現在でも使われているのです。
なぜならば、アメリカドルに代わるお金がなかったからだと言われています。
固定相場制から変動為替相場制に
同じく1971年12月に、ワシントン D.C.のスミソニアン・インスティテューションで開催された十ヵ国蔵相会議で成立した主要国通貨の多角的調整の会議が行われました。
これを「スミソニアン合意」と呼んでいます。
ニクソンショックによって、世界各国の通貨が混乱していたためです。
内容を一部抜粋してみましょう。
- 米ドルは金に対して 7.89%切下げて1オンス=38ドル (以前は 35ドル)
- 各国通貨の基準為替相場を調整 (ドルに対する切上げ,円はこのとき1ドル=360円から 308円へと 16.88%切上げた) し,それを平価の形で発表
- 為替変動幅を為替平価の上下1%から暫定的に 2.25%に拡大
- アメリカは輸入課徴金をただちに撤廃
全部をまとめて簡単に言うと、無理矢理ドル安の状況を作って、アメリカが有利な貿易ができるように調整をした形になりました。
しかし、アメリカドルへの不安は払拭できずに、何度も通貨危機を起こすことになります。
そこで、1973年に世界各国では、変動為替相場制度への切り替えをして、これらの合意は崩壊しました。
それでも不安定な各国の通貨(プラザ合意)
変動為替相場制へ切り替えをした各国でしたが、それでも通貨に対して不安定な状況が10年以上も続きました。
そこで1985年9月22日、先進5か国 (G5) 蔵相・中央銀行総裁会議により発表された、為替レート安定化に関する合意が行われました。
会議の会場となったアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のプラザホテルにちなんで「プラザ合意」と呼ばれています。
その当時主要5カ国の代表者が集まり話し合いが行われました。
会議に出席したのはこちらの5カ国の代表です。
- アメリカ財務長官の「ジェイムズ・ベイカー」
- イギリス蔵相の「ナイジェル・ローソン」
- フランス経済財政相の「ピエール・ベレゴヴォワ」
- 西ドイツ財務相の「ゲルハルト・シュトルテンベルク」
- 日本の「竹下登」蔵相
その後の世界経済に影響を及ぼした歴史的な合意でしたが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められていて、この会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものでした。
対日貿易赤字が多すぎて、日本を押さえる合意
アメリカドルに対して円が安すぎるために、日本との貿易赤字がアメリカでは大問題になっていました。
(今のアメリカと中国の米中貿易戦争のイメージ)
もっと簡単な言葉で言うと、「日本が世界でぶっちぎって稼ぎすぎていた」と言うことです。
そこでプラザ合意の内容ですが、実質的に円高ドル安に誘導する内容だったんです。
この時日本はバブルの真っ只中で、世界の他の国に比べて稼ぎすぎていたために日本への風当たりはとても厳しいものとなり、合意せざるをえなかったと言われています。
円高になると日本のものは売れなくなり、円安になると日本のものが売れやすくなるので、日本は無理矢理円高にさせられたという内容でした。
発表翌日
発表翌日の9月23日の1日24時間だけで、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落しました。
そして、1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになりました。
アメリカ国内で、日本から輸出した商品は1年前の倍くらいの値段になってしまったということです。
そりゃものが売れなくなりますよね。。。
そして、日本はバブル崩壊へとつながっていくのです。
まとめ
今回は、なぜアメリカドルが世界の基準の通貨になっているのか?について話をしてきました。
そこに付け加えて、固定相場制から変動為替相場制への以降の話と、ニクソン・ショック、スミソニアン合意、プラザ合意などの知識を付け加えました。
歴史的な話は少し難しいかもしれませんが、大体の流れを掴むためにも覚えておいて損はないと思います。
この歴史的な背景を知っていると、仮想通貨などの別の通貨が世界の基準となる通貨に変わるのはとても難しいことだとわかるのではないでしょうか。
そして今でも、米中貿易戦争のように稼ぎすぎている国に対してアメリカは手を打ってくるのは、昔から変わっていないと言えるでしょう。
世界ナンバーワンを維持するために、アメリカは今後どのような動きをするのか?
今回の内容は、未来を予想する上でも絶対に必要な知識だと思います。
今日も、読んでいただきありがとうございました。